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2010年5月 6日 (木)

八日目の蝉 「その子はまだ朝ごはんたべてないの」と希和子は絶叫した

八日目の蝉の最終回を見た。希和子(檀れい)が絶叫した言葉が後で分かった。でも『薫、金麦冷やして待っているからー』と聞こえた人もいたようだ。

ドラマは面白かった。誘拐犯が主人公というのが珍しい。原作があるとのこと。読んだことはないけど。
ネットで調べたら、小説の八日目の蝉、元になる事件があったとのこと、それを知ると結構重たく複雑な気になる。

 古い事件でも詳細(正確さは不明)に開示されている。本名が出ているのもある。
 小説は事件とは違う展開だ。事件は凄惨であるが、こちらは親子の愛情に絞っている。

気になったのは、警察の手で希和子と子どもが分離されるシーンで、希和子が何か絶叫していた。それがよく聞き取れない。ビデオで再生し音量上げてもよく分からない。
老化で耳が悪くなったのかなー、と自己嫌悪に陥る。

主役の檀れいが甲高い声で早口でまくし立てた場面だから、よく分からない。まさかモスキート音ではあるまいし・・・
 ネットの深みにはまっていたら、ようやく分かった。

 正確ではないが「その子はまだ朝ごはんを食べていないんだから

 意外な言葉なので、余計印象に残る。別離のシーンで母親になりたかった希和子の言葉が「まだ飯食っていないから食べさせて」か、・・・・
 リアルだけど、どうだろう?

 良い母親ぶりという意見もあるようだが・・・果たしてそうか?
 作者はなぜこんな日常的な言葉を入れたのか?

 最後の再会シーンも重要だが、ここも重要なシーン。でもナニを叫ぶかは、それほど重要でもないと思ったのだが。
子供の名前を絶叫すればいい、或いは警察に懇願する言葉でもよさそう。でも
作者はあえて意味を持たせたようだ。

 第三者が聞くと、たいしたことの無いセリフに聞こえるけど、子供(薫)が大人になっても気になっていたという背景があるので、この言葉は意味があるのだろうと思う。

 「その子はまだ朝ごはんたべてないの」

子供(とりわけ幼児期の子供)の世話・面倒を見る上での一番大事なことは何か。食べさせる事。一食も抜かさないこと。抜かしたら親の義務を果たしていないこと。ということなの?。母性から出た自然の言葉?
母性とは自分ではなく、子供の欲求を満たすこと、ということなのか・・・

鳥の子育、幾度も幾度も親鳥が外へ餌を取りに行き巣に舞い戻る場面がある。あれだ。

薫にとって、誘拐犯でもあの時は本物の母親だったことを、認めさせた という意味があるのだろうか。

原作は知らないが、このセリフは子供に向けたものではない。警官に伝えたもの。別に絶叫する必要ないと思う。自分を羽交い絞めにしている警官に言えばいい・・・なんてのは野暮か。

「その子は私の子なんです」だったらエゴ丸出し。

「薫、おまわりさんに朝ごはんもらってねー」ではあんまりだ。

追伸

八日目の蝉「その子はまだ朝ごはん食べてない」の台詞はブログネタとしても盛んのようだ。ドラマ(小説)はそれでいいけれど、さかのぼると嫌な事になりそう。ネットは歯止め効きにくいから。

それにしても、皆よく聞き取れたものだなーと感心した。字幕が欲しかった。

ネットでいろいろ見ていたら、檀れいバージョンがあってもよさそうだ。

「薫、金麦冷やして、まってるから~」というのもあったような・・・?

5歳では無理だから、大人になって再開することを夢見たのだろうか。

ラストシーンだって、「薫、金麦冷えてるわよー」なら再会できたのにね・・・

●追記 2011.5/4 最近、映画「八日目の蝉」上映のせいか、このページに来る人が多いので・・・鳥さんの子育て事例もどうぞ。蝉なんて目じゃないよ 

「そこまでして育てる、托卵戦略」 

さあ、希和子と薫の母親、どちらがジュウイチとオオルリ七日?

頭がおかしくなりそう・・・


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コメント

少し時間が空いたのでレコーダーに録画してあった「八日目の蝉(映画)」を見る。

・・・全く分からない。結局何を言いたいのか?

レコーダーから消去した後、何度も頭の中で反芻してみるが、どうにも分からない。確か名作扱いされていた筈。

何か見落としているのだろうかと、検索して色々な感想を読んでみる。


う〜ん。何故か皆、誘拐犯の女が子供を愛していると、勘違いして作品を見ているようだ。

誘拐犯の女は子供の事など一切愛してはいない。

彼女の中にあるのは自分の事だけ。

自分の欲望を満たす為の道具として子供を利用しているだけだ。

子供を本当に愛しているのであれば、その子供が最も幸せになれるであろう両親に返せばいいだけの事。

しかし彼女は子供の幸せよりも、自分の感情を優先している。

つまり彼女は、口では子供を愛していると言い訳しながら、自分の欲望を満たしているだけ。


映画の中では、誘拐犯の女が「子供の為に苦労苦悩している」かの様な描写が繰り返されるが、

彼女は最も楽な道を選んでいるだけ。

子供が産めなくなり、不倫相手とも別れなければならない という苦痛絶望(半分以上は自業自得でしかないが)から逃れる為に(精神安定剤的に)子供を利用しているだけだ。

誘拐犯の女も母親も、子供の事など一切見てはいない。

彼女等の中では、あの子供は「金で買ったペット」程度の認識だ。

母親は、所有者である自分に懐かない(自分を癒さない)ペットに苛立っているだけ。

誘拐犯の女も、買ってきたペットが本当の親を求めてどんなに鳴いても、全くペットの心情を無視する飼い主同様に自分の都合(欲望)しか頭にない。


子供は誘拐犯を愛していた訳では無く、保護者を求める本能に従い、最も身近にいる人間に懐いていたに過ぎない。


最後の誘拐犯の台詞も、子供の為に発した言葉では無く、自分が母親気分(自己陶酔)を味わう為、周りに母親アピールをする為の発言に過ぎない。

そもそも彼女が誘拐しなければ、子供が食べていない状況にはならなかった訳だからね。

本当に子供の心配をする様な人間であれば、そもそも その子供を不幸な状況に陥らせる行動は取らない。


(何故か、誘拐犯の女はシングルマザーに置き換えられているようだ。(勿論そう見せ掛けられているのもあるが)

あの子供は誘拐してきた子供であって、彼女はシングルマザーでは無い。

誘拐犯の最後の言葉も、(子供の事など一切考えていないのに)母親気取りもいい加減にしろ という怒りしか湧いてこなかった。

もしあのまま逃げ続けていれば、あの子供は義務教育すら受けられない。)

単純に映画の感想を言えば、リアリティーが無い。

設定・世界観がどんなに荒唐無稽でも気にならないが、そこで生きている人間(キャラクター)の行動が意味不明では説得力が無くなってしまう。

八日目の蝉に出てくる登場人物は全員が「自分の意思」では無く「シナリオ」に添って動いている。


例えば、

あの状況にいて、戸締まりもせず生まれたばかりの子供を置いて出掛けるだろうか?

(おそらく、ガラスを割って侵入したりすると犯罪色が強くなり、シングルマザーに見せ掛ける事が難しくなるから避けたのではないだろうか?もし合鍵を持っていたとしたら当然鍵を変えるだろうし、用心もするだろう)

主人公の「自分の特殊な状況を誰かに理解してほしい」という心情は理解できるが、それを打ち明ける相手にあれを選ぶだろうか?

あの子が何故ああなのかは後に説明されるが、その前の段階で家に上げたり、心を開く理由が全く分からない。

不倫相手も同様だ。何故?
(配役が逆なら、まだ分からなくもないが)

実の母親も、あまりにも人間的に幼稚過ぎないだろうか?

ようやく帰ってきた子供に、あんな態度を取るだろうか?

(誘拐犯の女をシングルマザー(善)に見せ掛ける為だけに、酷い母親(悪)を演じさせられている様にしか感じない)

この作品に無理矢理 教訓的なものを見出すとするなら、

『例え誰からも愛されていなかったとしても

(おそらく作者的には「誰からも愛されていないと思っていたが、実は愛されていたと気付く事で自分の子供に対する愛情が生み出された」としたかったのだろうが、それは誘拐犯の女が子供を返さない(帰さない)段階で破綻してしまっている)

、自分が誰かを(または自分自身を)愛する事から逃げる理由にはならない』

という事だろう。


結果的に映画の主人公は勘違いとは言え、

(無理矢理ハッピーエンドにしようとした結果)

正解に辿り着けた事になる。

この映画の監督(原作者も?)は、何故か

「人間は、誰かから愛される事で、誰かを愛する事が出来る様になる」

と思い込んでいるが、

誰かを愛する条件に、誰かから愛される必要など無い。

例えば、親(保護者)から愛情を持って育てられた幸せな子供が居る。

しかしその「愛情」は、その親がその子供を育てる場合においての正解に過ぎず、

その子供が自分の子供または誰かを愛する時の正解となるとは限らない。


そもそも愛情とは、その対象に特別な思考・判断を求められるから、人間は「それ」を愛情と呼ぶのではないだろうか。

人真似の愛情は、大抵の場合「自己満足」と認識・評価されるだろう。


「料理は愛情」という言葉もある。

大抵の場合、愛情があれば多少手を抜いても許されるだろう という言い訳に用いられる。

本来は、食べさせる相手の為に労力を惜しまない状態の事であり、手抜きとは真逆だ。

これは、料理に限らず「全ての人間関係」に当てはまる言葉でもある。(人間以外でも同じ)

(続き)

この作品に無理矢理 教訓的なものを見出すとするなら、

『例え誰からも愛されていなかったとしても

(おそらく作者的には「誰からも愛されていないと思っていたが、実は愛されていたと気付く事で自分の子供に対する愛情が生み出された」としたかったのだろうが、それは誘拐犯の女が子供を返さない(帰さない)段階で破綻してしまっている)

、自分が誰かを(または自分自身を)愛する事から逃げる理由にはならない』

という事だろう。


結果的に映画の主人公は勘違いとは言え、

(無理矢理ハッピーエンドにしようとした結果)

正解に辿り着けた事になる。

この映画の監督(原作者も?)は、何故か

「人間は、誰かから愛される事で、誰かを愛する事が出来る様になる」

と思い込んでいるが、

誰かを愛する条件に、誰かから愛される必要など無い。

例えば、親(保護者)から愛情を持って育てられた幸せな子供が居る。

しかしその「愛情」は、その親がその子供を育てる場合においての正解に過ぎず、

その子供が自分の子供または誰かを愛する時の正解となるとは限らない。


そもそも愛情とは、その対象に特別な思考・判断を求められるから、人間は「それ」を愛情と呼ぶのではないだろうか。

人真似の愛情は、大抵の場合「自己満足」と認識・評価されるだろう。


「料理は愛情」という言葉もある。

大抵の場合、愛情があれば多少手を抜いても許されるだろう という言い訳に用いられる。

本来は、食べさせる相手の為に労力を惜しまない状態の事であり、手抜きとは真逆だ。

これは、料理に限らず「全ての人間関係」に当てはまる言葉でもある。(人間以外でも同じ)

七紙さんのコメントが最高です。

最高に長いという意味ですが・・・
長い感想文を書くことが苦手では無いようですから、ぜひブログを始めることをお勧めします。
そこに書いて、他人のブログにを訪ねた時に、リンクを紹介するとか・・・
最近はツイッターやsns流行りですが、ブログですと思う存分書けますよ。

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