田原総一朗氏の転向理由
戦後日本政治の総括 (岩波書店 田原総一朗)に書かれた転向理由、そして宮沢喜一氏の知恵
前記事・渡辺恒雄氏の続き
本書の冒頭部分で、8月15日の午後のことが書かれている。国民学校初等科五年(11歳)の時だという。
軍国少年だった私は、海軍兵学校に入り軍人となるのが夢だった。戦争に参加して死ぬことは決まっていたのでいかに華々しく死ぬかであったが、敗戦によりその夢が消えた。
一・二章が若い頃の話し、その後はジャーナリストとしての歴代総理や政治家への生々しい取材である。テレビでお馴染みの口調で、戦後から今日の安倍政権までを政治ドキュメンタリー番組のように綴っている。
特に日米安保を軸とした対米関係の紆余曲折については読んでいて腑に落ちるが、ここでは前記事の続きとして左翼運動からの転向理由について取り上げる。
(戦後)高校から大学、社会に出てからも日本共産党を支持したのは、最後まで戦争に反対していたからであり、戦争の総括もせず、戦争協力者が少なからずいる自民党には、徹底的に批判的であった。学生の時に入党を促されたが、「幹部の話を聞くと、大変に厳しい活動と学習を行っていて、規律と言うものが苦手で・・・辞退した」とある。
渡辺さんの軍隊嫌いとも通ずるが、右・左問わず激しい思想運動になるほど洗脳や規律の度合いが高まるため、馴染めないのだろうと思う。
岩波映画に就職後も安保闘争へのデモに参加していたが、田原氏や全学連のリーダーだった西部萬氏らも安保条約の条文など読んだことは無かった、と述懐し、根底には岸信介が再び日本を軍国主義に戻すのではないかという、(敗戦で痛感した)政治権力への不信感だったとある。
●そのときから左翼ではなくなった。
新興のテレビ東京に移りドキュメンタリー番組を作っていた頃、1965年にモスクワで世界ドキュメンタリー会議が開かれ、日本代表として招待された。米ソ冷戦の最中であり、一年前にフルシチョフが失脚していた時だ。
当時の田原氏が、平等を最優先するソ連を「理想の国」と思っていたのは、「アメリカが日本を戦争に巻き込む国」と思う事の裏返しだと書いている。
滞在中にモスクワ大学の学生を集めて討論会を実施した。その時に「フルシチョフはなぜ失脚したのか」と質問し、答えてくれると思っていたら、学生たちの顔が真っ青になり、口が震えんばかりになった。同行者から「そんなことを聞いてはダメだ」と注意された、と言う。
「4週間の滞在中に、ソ連には言論・表現の自由が全くないことを思い知らされ、私が抱いていた幻想は叩き壊された。」
似た話しとして、国際エコノミストとして有名な長谷川慶太郎氏の例を書いている。長谷川氏はブルガリアから国内工場の競争力の調査を頼まれて見て回ったが、結論は「ダメだ、国際競争力を持てる方法はない」と判断した。大工場のトップはイデオロギーを説くだけで、生産性とか品質に対する概念がまったく無いという。学生時代は熱心な共産主義者で逮捕歴もあるが、後に反共産主義に転じたきっかけがそれだったという。
ソ連では言論・表現の自由が全く無いことがわかった。とんでもない国だ、と実感し、この国に将来性はないと思わぎるを得なかった。だが、そんなことをいえば、テレビ東京にはいられなくなり、日本社会では孤立して、やっていけない、とも感じ、しかし、いつかはきちんといわなければならないと強く思った。
そのときから、私は、いわゆる左翼ではなくなった。 (おわりに より)
転向理由について、渡辺さんは簡単にしか触れておらず本当の胸のうちは分からないが、田原さんは理想が幻滅に変わったように書いている。言葉としては二人とも使ってはいないが、「現実主義」に転じたという事かもしれない。日本がドンドン成長していく頃だから、理念よりも夢中にさせることがたくさんあったと想う。
●宮澤喜一の知恵
宮沢氏から「日本人は、自分の身体に合わせた洋服をつくるのは下手だが、押しつけられた洋服に身体を合わせるのは上手です」と聞かされた。
一九六五年に米国がベトナム戦争をはじめたとき、米国は、「日本よ、ベトナムで一緒に戦え」と迫った。米国の要請は断われないのだが、当時の佐藤栄作首相に、宮澤が「本来ならば、ベトナムで一緒に戦いたいのだが、あなたの国が、難しい憲法を押し付けたので、自衛隊は海外に出られないではないか」といわせて、戦争に巻き込まれるのを回避できた。
その後、この論法で、日本は平和を持続しつづけ、高度成長を実現することができた。
この論法は米ソ冷戦時代が終わると通用しなくなったため、日米安保の片務性と双務性の議論へと発展して安倍内閣の集団的自衛権へと至るのだが、その辺りは本書をどうぞ。
●安倍首相「憲法改正は必要なくなった」2016/9月に一対一の取材
田原「衆参の両院で三分の二以上をとったので いよいよ憲法改正ですね・・・」
安部「大きな声では言えませんが、実は憲法を改正する必要は全くなくなったのです」
今までは「日米同盟が維持できない」とアメリカ高官からうるさく言われていたが、集団的自衛権の行使を認めるようになってからは、アメリカは何も言わなくなった、というのが理由だ。
しかし、実際はその後も憲法改正を目指していた。
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8/28の安倍首相の辞任会見
「月曜日に(辞任の)判断をした。一人で判断をした」
その月曜日(8/24)には二つのニュースがあった。慶応病院へ二回目の検査に通ったこと。もう一つは、連続在任日数が2799日となり、大叔父である佐藤栄作の記録を抜いたこと。
悪いことと良いことが同時にあった日だった。
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