アリコベール上尾40年史に書けない黒歴史
ボンベルタ上尾から丸広百貨店への闇
今年は市政65周年事業というが、我が役場はオリンピック+1年毎に記念事業をやりたがる。これは新手の公共事業かもしれない。つまり表彰市民を創作し、市民と行政が相互に称賛しあうのだ、税金で(今年は1250万円)。
それとは別に15日にアリコベール40周年記念イベントがあった。三つのビルが40歳になったのだ。実は、傘下のレストランで券をもらって知ったのだが、駅を使わない人や西口の人には関心が薄いはず。だからイベントは小さく、Webの案内も弱かった。
雨がやんだ丸広屋上は濡れていたが、ダンスチームに合わせて若い来場者らが躍っていた。ヒップポップ系ダンスみたいで、ゼクシスでも見る光景だ。
丸広屋上はコロナ前のビアガーデン以来だが、たまたま●長と話をした。やりたい気はあるが、請負い業者が見つからないという。確か、前は一人四千円位の飲み食い放題のバイキングだった。しかし、それは高齢市民には不健康なのだ(^^♪。昔ながらの本格ガーデンでなくても、地下食品売場のデリカテッセンや四川飯店から取りよせて、お気軽な『夏の屋上屋台』で良いのでは。タワマン下にある田中屋の盛況ぶりを見れば分かるだろう。
6階の催事場で北海道物産展をしていた。海鮮弁当は何処にもあるが、この牡蠣めしはうまい。
アリコベール上尾の沿革史
3棟は1983年9月に同時オープンした。A館は商業施設の「デパート館」、B館は「東武サロン(結婚式場)」、C館は「東武ホテル」である。その施設概要は大家の上尾都市開発(株)サイトにある。
(日経新聞 地方面『国鉄上尾駅東口の「アリコベール上尾」、初日の23日は10万人の人出。』1983/09/25)
今となっては百貨店は古い業態となり、各地の駅前から姿を消している。それを想うと、日本が長い停滞期に入る80年代という最後のタイミングでよくぞ造ったなと感心する。そして何度も書くが、駅を降りてデパートを仰ぎ見る光景は希少である。それを昭和的な光景と言ってしまえばそれまでだが、高崎線では浦和、大宮、上尾しかない。熊谷の八木橋は駅から離れた旧中心地、川口ではそごうが撤退した。この希少性は貴重だと思う。
で、改めて第三セクター(3セク)の上尾都市開発サイトの沿革を見たら、ある期間が空白だ。丸広上尾店は1992年10月開業で、竣工の9年後だ。この9年間が空なのだ。
それを簡単に埋めれば、当初はボンベルタ上尾という特殊な百貨店が開業したが不振続きで9年で撤退した。その穴埋めに、都市開発は建物を四割引きで丸広に売却し、大きな負債を抱えたという汚点である。
実は、この東口再開発の経緯を書いた貴重な記事がある※1。新聞記事等をソースにした長文なので下に要約した。
戦後の上尾駅は地上駅舎で改札は東口のみだった。高度成長期に団地開発が進み人口が増えると、橋上駅化して西口に改札口ができた。その後、西口の有志らによりモンシェリーが作られ賑わった。 そしたら東口の商店主らが危機感を抱き、官民一体で東口再開発へと進んだ。83年に大型ビル3棟とペディストリアンで繋ぐ今の姿がオープンしたのだ。 中心のA棟に地権者がテナントで入る一方、核テナントとして西友・イトーヨーカドー(IY)・ジャスコの中からジャスコ(現イオン)が選ばれた。しかし、市民の要望はスーパーでは無かった。事業者らも、市民が買回り品を大宮や都心へ流出しないことを願っていた。 そこでジャスコは新タイプのジュニアデパート(小さ目の格下クラス?)の「ボンベルタ上尾」を提案し開業した。しかし、商売は思わしくなく、初年度の目標年商140億円は64億円となった。 88年にはIYが昭和産業跡地(ショーサンプラザ)に出店した。当時のバブル期には大宮や桶川でも大規模店が相次ぎ、さらにロードサイド店との競合も加わった。かくして、日用品はIY、高級品は大宮という構図となってボンベルタの経営は悪化した。価格や商品の見直しをするも、1万4000㎡という小面積も足かせという。都市開発には賃料値下げを交渉するも、結局、9年目の92年に撤退した。 後継に上がったのは川越市に本店を置く丸広百貨店。しかし、撤退でダメージを受けたのは上尾都市開発(株)だった。ボンベルタへ返す敷金や保証金がかさむなど80億円の負債を抱えた。そこで、テナントになるはずの丸広へ、ビルごと60億円で売却する挙に出た。資産価値100億円を超す物件を四割引きで売るとは大問題。おまけに、上尾市が上尾都市開発に10年間で21億円を無利子で貸付けたので、さらに市民の反発を招いた(その辺りの経過は不明)。だが結局、60億円で売却されて丸広の資産となり、丸広上尾店は1992年10月に開業した。 |
丸広上尾店と損失問題
本ブログでは丸広を何度も扱ってきたが、今の経営は丸広不動産みたいだ。テナントを埋め、床稼働率さえ高めれば、自社直営事業の赤字を補えるのかも知れない。ただ、その前提は豊満市からの40億円プレミアムなのだ。賃貸ならとっくにサヨナラだろう。
なので、市民から見た合理性とは、40億円の穴を毎年の固定資産税、法人市民税や地元雇用者の市民税でどれだけ回収(複利計算)したかである。そんな事知った事かの市政だからこそ、「40周年おめでとう」はノー天気、と言うのが本稿の趣旨である。
参照記事には、ボンベルタの店頭価格が上尾に馴染まなかったとありガックリくるが、一体どんな店だったのか全く分からない。ただ、ジャスコにしたら小さな失敗例に過ぎない。流通業は業態変化への適応こそがキモだから、お手本のように、近年、イオンモール上尾として戻って来た。
なお、敷金や保証金で3セクが80億円の負債とあるが、フツー、徹底する方が違約金を払うから魔訶不思議である。(信じがたいが素人の寄せ集め?) 監査請求や訴訟にもなったが、結果は変わらない。その不条理さを追求したと、尾花正明市議が書いたブログを、昔見つけたことがある。
- 都市の再開発は大宮までが限界か
バブル期は活気があり再開発事業が行われたが今は全く逆。高崎線沿線で拡大型の再開発ができる街は大宮と浦和、川口辺りしかない。
首都圏では昔から東京の南側(横浜や川崎)に人気が偏っていたが、開発余地が減ったり地価高騰もあり、割安だった北側(埼玉南部)の開発案件が増えてきた。しかし、官と民の資本が入るのは大宮駅や浦和駅周辺に限られ、他市の話はあまり聞かない。強いて、外環道路沿いの流通センターと言う名の大型倉庫がある。また市内だと郊外の老人ホーム位だ。
大宮駅グランドセントラルステーション構想は駅と東西の回遊性を高める。その北側の30年塩漬けした市営桜木駐車場の土地も動き出す。浦和駅西口には南高砂地区の再開発や駅前広場の再整備がある。そこで「県都の玄関口に相応しい」という鼻持ちならない言い方が浦和らしい・・・。
上尾は、東京都ではなく、「大さいたま市」の北側ベットタウンになりそうだ。
最後に、市は図書館本館の更新計画を検討中だ。選択肢の一つに駅前ビルへの賃貸入居案がある。仮に丸広としたら、30年間入れば築70年になってしまう。壊すから出てってくれ、と言われたら行く場所がない。ショーサンにしても似たようなものだが、711は投資ファンドの圧力で更なる合理化を迫られており、IY上尾店の第二弾の縮小があっておかしくない。本館の件はまたの機会に・・・
※1 まちづくり】上尾の玄関口づくりとジャスコが作った「百貨店」-上尾駅東口再開発
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